増原メッセージ:(17)台湾での研究生活:毎日感じる差がよい刺激

1・はじめに
私は2007年3月に大阪大学工学研究科応用物理学教室を定年退職し、2008年4月より台湾の新竹市にある国立交通大学の理学院応用化学系および分子科学研究所(台湾で言う研究所は日本の大学院の独立専攻にあたる)において講座教授として研究と教育を行っている。現在では私を含めスタッフ4人、ポスドク2人、秘書1人、博士院生6人、修士院生12人、学部生2人の大所帯で、レーザーと光学顕微鏡を駆使して、レーザー照射により誘起される新しい分子現象の探索とその電子論的解明、バイオ研究のための方法論開発を行っている。ここではグローバル化を考える際のひとつの参考ケースとして、親切で優しく安全な台湾においてもなお毎日感じる日本との差について具体的にお伝えしたい。
2・台湾に来た経緯
学生時代から海外生活にあこがれていたが、そのチャンスは定年後に巡ってきた。2004年に国立陽明大学に集中講義に行ったときに、廊下に窓のない南国的な建物で研究生活をしている台湾人教授にある種の共感を持った。2005年にノーベル化学賞受賞者の李遠哲先生がアジア光化学会議を台北で開催された時に、台湾との共同研究あるいは連携を示唆されたが、どういう形の展開が可能なのか私にはイメージがなかったし、何よりも忙しくて考えようとはしなかった。2007年に李遠哲先生の弟さんで同じく物理化学者の李遠鵬先生から私を招聘したいと考えているので真面目に検討してほしいとのメールをいただいた。これはすばらしい話だと直感した私は、すぐに新竹市にある国立交通大学に李遠鵬先生を訪ねた。私はアメリカ帰りの林明章、林聖賢の超一流物理化学者、太陽エネルギー変換やバイオナノ研究に従事する若手教授陣などと懇談し、これは日本の一流大学と同レベルの素晴らしい化学教室だと実感し、即お受けすることにした。
3・日本の研究開発の良いところと悪いところ
台湾は九州と似ている。ほぼ同じ面積で2300万人が住んでいるが、東側は山が険しいので人口が少なく、西側に新幹線が走っている。新竹は台北から30分、スーパーコンピューターやシンクロトロンの研究所、産総研のような国立研究所があるサイエンスパークで有名な都市で、民間会社の研究所や生産拠点もあり、ビジビリティーは日本の筑波以上と言えそうだ。ここに北京の清華大学、上海の交通大学からの流れを汲んで戦後に発足した国立清華大学と国立交通大学がある。これらに戦前の日本の台北帝国大学を起源とする国立台湾大学を合わせて台湾のトップ3校と呼ぶが、交通大学は理工学系が中心で総合大学ではない。戦後台湾の主要産業である電子産業を支えてきたこの交通大学を、私は東京工業大学になぞらえて理解している。 新竹サイエンスパークは、当初よりシリコンバレーでデザインし、新竹でデバイス化して、中国で電子製品に組み立てるというグローバルな図式に基づいて設置運営されている。この成り立ちは台湾の研究開発の構図そのものに見える。学問の基本的なことはアメリカか日本がやればいい。役立ちそうだとわかったものは台湾がすぐやる。確かに2300万人の人口で九州ぐらいの面積の国が、組織的な基礎研究を展開するのは楽ではない。アメリカから帰ってきた台湾の研究者は、ナノ、バイオ、単一分子、プラズモン、太陽電池など流行の研究をさっとやり、インパクトファクターの高い雑誌に得意の英語ですぐまとめ発表する。Nature、Scienceに載るとボーナスが出る。私から見ると日本は台湾に比べると今なお幅広く余裕があり、それが次の創造的研究開発の可能性につながっていると感じる。 台湾の大学では基本的に、教授、副教授(日本の准教授に相当)、助理教授(助教に相当)は独立研究室を持つ。しかし秘書はいないし、教室の運営システムがアメリカの大学のようにはなっていないので、全てを自分でやらねばならない。研究費からフェローシップを出している大学院生が頼りである。研究費がなくなると院生はいなくなる。研究費を貰い続けるにはインパクトファクターの高い雑誌に投稿し続けなければない。一人で研究しているので、探索研究は危険、流行の研究をやるほうが安全ということになる。私の親しい友人で日本に長期滞在されたことのある教授は、日本の講座性は良い、若い助教に冒険をさせつつ新しいトライもでき、学会のお世話もできる、日本の講座制は羨ましいとおっしゃる。 科研費に相当する研究費は、約半数以上の人が貰えるようである。評点が中間くらいの人には、審査員から質問が来る、きちんと対応すると申請が認められる。大学の予算で研究をしている私は、大学に年に一度報告書を提出するが、それについて書類審査の外部委員から評価と質問が送られてくる、これに答えてから、学長と別の外部委員の前でのインタビューの段階に進む。このプレゼン結果について当然質疑応答が行われるが、これをまた文書化して提出する。これについてもまた質問が来るので回答し認められると、次年度も研究費が頂ける。このコミュニケーション付きの審査はなかなか良い。
4・日本の研究マネージの良いところと悪いところ
日本の研究マネージはボトムアップ方式で、責任の所在が明らかでない、決断が遅くなると私も疑問を持っていた。一方台湾では大学も研究所もトップダウンのマネージメントにより運営されている。学長や所長が交代すると、その任期中に新しい成果を示さねばならないので、機構の改革をやる。毎年のように新しい企画が生まれる。したがって長期的な視野での研究開発よりは目に見える出口が望まれる。トップの指令を受けて、職員は頑張る。研究室も当然このトップダウンの風土の中にある。私が秘書にお願いすると、少し荒っぽいがすぐやってくれる。この時トップは具体的に全てを指示しなければいけない。具体的でない部分は、自分流にやってくれる。前回はこう言ったから今回も同じようにやってくれるだろうと考えるのは、日本流である。大阪大学時代の秘書は丁寧に私の意向を推し量りながら、完璧な書類を作ってくれた。秘書は教授のやり方を覚え、翌年には詳細は言わないでも同じ書類が出きてきた。台湾ではこちらの希望を一つ一つ説明しなければならない。翌年もまた一つ一つ説明しないと、我流で作った書類に戻る。トップダウンとは毎回リセットし、トップが言ったことを素早く処理することと理解した。 大学院生も同じように指示を待っている傾向がある。すでに似た論文があり、具体的にすべきことが計画できるテーマの場合は、どんどん実験データを出して、ハイ先生考えてくださいとなる。時間のかかる探索研究、ああでもない、こうでもないとトライする実験は苦手である。類似研究、先行研究のないテーマはどうしていいかわからない。これがトップダウン式風土における研究室の現実と感じている。
5・台湾の学生と日本の学生
台湾は学歴大好きである。まず国立台湾大学へ入りたい、次は国立清華大学、そして国立交通大學で、この3校を卒業して会社に入ると最初から給料が高いと言われている。専門はどうでもいいからこの3校を出ろと、親は子供に要求する。よくできる子はアメリカを目指す。一番手の台湾大学では、優秀な学生は学部を卒業してアメリカの大学院へ進学する。空いた修士課程へは二番手の大学から進学してくる。優秀な修士修了生もアメリカに行くので、博士課程へはまた下位の大学から入ってくると聞いている。私の研究室でも半数以上が交通大学の出身ではない。専門を変えても構わない、世間の評判のよいところへシフトする。日本の大学院生は一つの研究室にしがみつくが、これを良くないとは今や言えなくなった。 台湾の院生のプレゼンはうまい、英語の会話力も高い、質疑応答も上手で弱みを見せない。私は自分の研究室の台湾人院生を実力以上に評価していたことに数年たって気がついた。会議のお手伝い、セミナーや会合の取り仕切りも上手で、メリハリつけたマネージは安心して見ていられる。しかしサイエンティッフィクなやり取りにはなかなか入らない。形を作るのはうまいが、内容から組み立てるのは苦手なようだ。 私の研究室から日本の大学へ派遣した院生の帰国報告を紹介しよう。ドクターとマスターの院生をそれぞれ大阪大学と北海道大学に数か月間派遣をしたが、彼らが帰ってきて私に言った感想はお互いよく似ていた。勉強は交通大生の方ができるかもしれない、英語は交通大生の方がうまい、でも日本学生は交通大生よりまじめだと言う。どういう風にまじめなのかと聞くと、長い時間働く、夜遅くまで実験する、というのが答えだった。私が日本で働いていたころ、おしゃべりしながらだらだら研究室にいるのは良くないと言ったこともあるが、実はこの長い研究室滞在中に先輩から研究室のテーマの位置づけ、最近の進歩、実験技術のノウハウを伝授されているのだろう。トップダウン方式で具体的な指示に基づいて実験するだけなら9時―5時路線でもいいが、上記の伝授は無理だと考えるようになった。
6・大学のグローバル化は第二段階へ
野球、サッカー、相撲などのプロスポーツでは外国人監督、外国人選手が当たり前になっており、一方外国のプロ野球、サッカーチームで活躍する日本人選手のニュースが毎日テレビで流されている。初期には日本の一流選手が外国での実力を問う場合が多かったと思われるが、これはグローバル化の第一段階であろう。最近では日本でパッとしていなかったプロ選手がアメリカの野球で有名になるケースが増えてきたようだ。いわゆる適材適所が国内から国外へもひろがってきたと見ることができる。これをグローバル化の第二段階と考えてはどうだろうか。大学のグローバル化でいえば、外国人を呼んでの国際化が第一段階であろう。私が10年ほど前に中国、韓国の大学を訪問した時には、こちらに来ませんか、”Help us”であった。今でも第一線の知識人は、日本に比べて20ないし30年遅れているという。しかし大学のグローバル化については、第二段階に入りつつある、あるいは入るべく努力すべき段階にあると私は思っている。すなわち研究者は適材適所を意識して、身を移しての本当の  “Collaboration”をする時代になってきた。私もせまい意味での共同研究ではなく、自分が評価される国で、自分が最も実力を発揮できる国で、ともに世界の科学技術を発展させようという姿勢を取っている。 アジア諸国の大部分の大学は、私の言うグローバル化第一段階にあるが、台湾、中国の沿海部、韓国の大学は第二段階を志向している。ここでいう私のアジアの視点から見て、ヨーロッパやアメリカの大学のグローバル化はどうなのか。私は欧州の大学も第二段階であると思う。そして日本も。ドイツのMax-Planck-InstitutesもフランスのCNRSも、その伝統を変えつつ外国人リーダーを増やそうとしている。日本の大学のWPIもこれに相当する努力を払っている。欧州の先進国では高い科学技術の水準をめざして、グローバル化第二段階をまっしぐらに進んでいると思われる。 それでは今評判のシンガポール大学や歴史的に先端を走ってきたアメリカの大学のグローバル化はどのように考えるべきなのか。私は全く違うカテゴリーのグローバル化であると解釈している。シンガポールの科学技術に長い伝統や歴史はないので、有名教授を呼んできても”Help us”にならないし“Collaboration”もできない。グローバル化第二段階にはならない。しかし強い経済があるので、国際的な研究者や技術者に世界水準の研究開発の場を提供することができている。実際欧米の研究者に加え多くの日本人教授がシンガポールに招かれ、高いアクティビティーを示している。時代も規模も異なるが、200年ほど前のアメリカも経済力を背景に研究開発の場を多くの欧州有名科学者に提供し、今日の研究技術開発の基盤を築いた。現在も”Collaboration”というよりはむしろ各国から優れた人材を吸収している。しかし固有の文化や習慣が強いアジア諸国は、シンガポールやアメリカのように研究の場を提供するというグローバル化の道は辿らないし、辿れないと思う。
7・若手研究開発者へのメッセージ:国境を超えた適材適所
1960年代には人口が増え、産業が伸びて工場が次々と建ち、民間の会社も研究所を設置した。科学技術の人材が必要で、日本の大学は理工科系ブームに突入した。それから数十年たって少子化で人口は減り、工場は海外へシフトし、研究所は閉鎖された。したがって大学も縮小せざるを得ない。延命策としてはアジアからの留学生を増やすことであるが、少子化の始まっている台湾、韓国、中国もまもなく日本と同じ道を辿るので、これらの国からの留学生は早晩期待できなくなる。当面は学生、院生をシェアーするデュアルディグリー制度で切り抜けることが始まっており、交通大学も日本の大学と関係を密にしている。若手研究者にはまずこの実情をしっかりと認識してほしい。 適材適所という言葉を思い出す。人はそれぞれ発想、経験、能力、年齢が異なる。研究者も技術者も、発想、経験、能力、年齢が異なる。その多様性に応じたポスト、ファンディングが、人を、研究者を生かすことになり、ひいては大学、会社、国を富ますことになる。昔は、適材適所は国内に限られていたが、グローバル化時代においては、国際的な適材適所の時代になってきている。自分の能力をどこで生かすか、どこで一番必要とされるか、そしてどこで生きていくかをグローバルに考えていただければと思う。 台湾、韓国、中国の科学技術は伸びているが、いつごろ日本のレベルに達するのだろうか。若い人ほどもうすぐ同じくらいになると感じるらしいが、どの国でも一流の研究者ほどもう二、三十年はかかるかなとおっしゃる。私も着任した直後は交通大学を湧き上がるアジアの大学と思ったが、今ではいろいろな側面が見えてきたように感じる。科学技術の成果は比較的容易にフォローできるけれど、言うまでもなく科学技術の源流を作り出すのは簡単ではない。台湾で研究していて、ますます科学技術は文化の所産と思うようになった。社会、文化、習慣、民度とオリジナルな発想は強く関連している。したがって若い日本人研究者がアジア諸国に乗り出せば、文化の違い、習慣の差を強く感じるがゆえに新しい発想を持つチャンスが増えると考えている。

(このメッセージは高分子学会会誌「高分子」2015年1月号特集に寄稿した文と同じです)



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