増原メッセージ:(20)田中郁三先生を偲んで


 田中郁三先生は平成27年2月16日89歳で亡くなられました。私は田中郁三先生に数十年にわたりご指導いただき大変お世話になってきましたが、もう直接お会いして御礼を申し上げることもできなくなってしまいました。平成27年6月7日(日)東京工業大学大岡山キャンパスにある東工大蔵前会館で田中郁三先生を偲ぶ会が開かれました。この機会に先生の思い出をまとめてお悔やみのご挨拶とさせていただきます。
 私は1965年に卒研生として東北大学理学部化学教室の小泉正夫教授の研究室に入りました。小泉研を選んだのは物理化学とりわけ光化学の研究をするためです。当時の光化学研究にまだ固体の光化学はありませんでした。溶液系の光化学と気相系の光化学の研究がメインでしたが、当時の日本では溶液系光化学の研究を東北大の小泉研が、気相系光化学の研究は東工大の田中郁三先生が主導しておられました。小泉研の先輩たちが教えてくれたことです。これが私が田中郁三先生のお名前を存知あげた最初の時です。以後、春の年会、光化学討論会があるたびに、田中研は・・、田中郁三先生は・・というように、小泉研の職員も学生も噂していたことを思い出します。私が田中郁三先生にお会いする前に郁三先生のお名前と親しくなった由縁です。私は小泉研究室では奥田典夫助教授に直接のご指導を受けました。奥田先生は田中研の卒業生ではありませんが、東工大のご出身で田中先生をよくご存知でした。奥田先生に分子の電子状態の計算をする手ほどきを受けましたが、この奥田先生から当時の東工大の事情を良く聞いたものです。
 私が東北大小泉研に入った1965年には東京で国際光化学会議が行われ、そのことをよく耳にしました。田中郁三先生が議長になられて国際会議を開催されたのですが、もちろん光化学としては日本では最初の国際会議でした。その頃に聞いた思い出の一つを書いておきます。田中郁三先生は若くして教授になられていますが、戦後外国に行くのが容易ではなかったころから、日本の光化学を世界に、今流にいえば「発信」することに努めておられました。もちろん戦後は簡単にはアメリカに行くことはできませんでした。田中郁三先生は何かのつてをお持ちだったのか、詳しくは存じませんが、軍用飛行機、アメリカ軍の飛行機に乗ってアメリカに行かれ、国際会議に出席し、大学や研究所も訪問されたこともあると聞きました。これは本当でしょうか。
 光化学討論会、分子構造討論会(現分子科学討論会)ではいつも遠くから田中郁三先生のお顔を拝顔しておりました。今からもう40年ほど前、田中郁三先生がまだ40代だと思いますが、すでに学会の超一流の先生であられ、懇親会やその他の会では必ず挨拶をされるお一人でした。もう一人の先生は長倉三郎先生で、長倉先生は日本のサイエンスあるいはケミストリーの今後の有り方について指針を与える、言わばお父さん役のような挨拶をされました。一方、田中郁三先生はそれをフォローし補うような、言わばお母さん役と申しましょうか、研究者の立場に立った挨拶をしておられました。お優しい先生であったと今でも思い出されます。
 1968年に私は修士課程を終え、小泉研から大阪大学の又賀研へ移りました。ドクターを取って約12年間助手をつとめ、1985年に京都工芸繊維大学の教授になりました。この頃から私もようやく一人前と認められて、学会や科研費のシンポジウムなどにおいて一流の先生方とご挨拶できるようになりました。田中郁三先生ともそのころに直接お話しできるようになったと憶えております。しかし、一番親しくして頂けたのは、新技術開発事業団、今のJSTですが、そこでERATOプロジェクトが始まり、私がリーダーに就任したときからだと思います。1988年にERATOプロジェクトリーダーに私が選ばれたとき、審議会の委員長は長倉三郎先生でした。しばらくして、委員長は長倉先生から田中郁三先生に変わられて、田中先生がERATOの言わばお目付け役になられました。私がERATOプロジェクトを終える1993年にベルギーでフランス・デシュライバーさんとレーザーと顕微鏡を駆使したマイクロ化学の国際シンポジウムを行ったときにも応援してくださいました。JSTとしてオーガナイズすることにご協力いただいたのみならず、田中郁三先生ご自身も本多健一先生と共にベルギーのブラッセルに出向いてシンポジウムに出席してくださいました。その記念写真が手元に残っています。
 このように私は田中郁三先生に親しくご指導をしていただけたわけですが、田中郁三先生は誠に人を褒めるのがお上手な方で、上手く褒めて煽てられながら研究させていただいたように思います。また、色々な人と会う機会をつくっていただきました。たとえば新技術開発事業団理事長の赤羽先生と田中郁三先生ともう一人二人おられたかと思うのですが、どこかの2階に上がり込んだことを覚えています。私はもっぱらお話を伺う方でしたが、田中郁三先生と赤羽先生が色々とお話ししてくださったことを思い出します。赤羽理事長もかなり前にお亡くなりになりました。1989年には東京理科大の石井忠浩先生が神楽坂でシンポジウムを開かれ、田中郁三先生、又賀昇先生、本多健一先生、藤嶋昭先生、小尾欣一先生、デシュライバー先生が来られ、私も呼んでいただきました。東京インスツルメンツの駿河さんが撮って下さった記念写真が私の机の上にあります。
 国際光化学会議を田中郁三先生が最初に日本で開催されたのは先ほど申しました1965年でした。それから20年たった1985年に田中郁三先生と小尾先生が主催されて、向井先生もおおいに頑張られて、日本としては第2回目の国際光化学会議が上智大学で行われました。この時は私も教授になっていましたので若輩ながら大いに働き、又賀先生を議長にポストコンファレンスを京都で開催しました。1990年代後半になって、小尾先生と私がこの国際会議の日本側の委員となって、日本で3回目の国際会議をやろうという事になりました。それが2003年に奈良で実現したわけですが、その開催が決定される1999年のアメリカのDuke大学での会議の前に田中郁三先生に色々とご相談しました。その時の田中郁三先生が「ああ、いいね、やりなさい」という感じではなくて、非常にきちんとお話をされて、従来のいつもにこやかな田中郁三先生とは少し違う感じであられたことを今でもよく憶えております。場所はやはり飯田橋のあたりで、田中郁三先生、小尾先生、私の3人で、小尾先生と私が「また日本で国際光化学をやりたい」と申し上げた時には、「そうするにはやはり今の光化学の現状をきちんと分析しておかないといけないね」とおっしゃられました。あるいはそういう事も有ろうかと、Journal Physical Chemistry誌など主要雑誌で物理的な光化学はどういうような研究状況になっているのかといことを予め調べておりましたので、その場で「そうです」と申し上げてお答えすることができ、ほっとしたことを憶えています。田中郁三先生は常に先を見ながらきちんとご指導に当たられているのだという事をひしひしと感じた時でありました。
 その後、私の科研費のプロジェクトの国際シンポジウムや紫綬褒章のお祝いの会等にもお越し下さり、おおいに励ましていただいてことにも大変感謝しております。また、田中郁三先生がリタイヤされた後にも、けいはんな学研都市の国際高等研で研究されていましたが、その会議の終了後、奥様と共に私の自宅にお立ち寄りくださいましたことも大変ありがたい思い出となっております。田中郁三先生は又賀先生の大応援団でもあられました。化学のワールドで、あるいは世界の光化学で、研究一筋のお方であった又賀先生がその実力に応じた正当な評価をお受けになることがお出来になったのは、田中郁三先生のご理解ご高配と正確な位置づけが世界に伝わったからだと思っております。実際、又賀先生が藤原賞を取られたときや、その他の色々な受賞の時には必ず駆けつけてくださって応援をしてくださったと記憶しています。
 少し昔の事になりますが、私は学生時代に化学或いは物理の専門の本だけではなく科学技術論に興味を持って調べたことがありました。田中先生の愛する東工大は科学技術論に強く、星野芳雄さんらの卒業生を出していることを知りました。また武谷三男さんが自然科学概論を書いておられますが、その中に「若き学徒田中郁三は・・・」という記述があり、田中郁三先生のことが書かれておりました。当時、田中郁三先生はまだ20代後半か、30代になられた直後くらいのお年だと思うのですが、既にそういう哲学的なことを含めた物理学者の本の中にそのお名前が登場しておりました。これは私がまだ東北大の学生の時にこの一節を見つけて、そのような先生が光化学の世界におられるということを知り感激をいたしました。私はまだその本を持っていますので、田中先生のことが書かれている箇所をもう一度捜してみようと思っています。
 今振り返ってみますと、私は田中研の出身者ではございませんが本当に色々なチャンスを与えていただきました。このように直接の弟子でもない私が色々なことを教えていただけたのは、先生ご自身のお人柄と先生の格別のご好意によるわけですが、それだけではなく、日本の光化学、分子科学に対する先生の思いがあり、それを次の世代に伝える教育上の一貫として若輩の私にもあたられたのだと理解をしております。このようにしていただいたことを今度は私が次の世代に渡して発展させていく、そういう好循環を続けることが私の責務であると感じております。今後はこの好循環を日本国内にとどめず、アジアの次の世代へつないでいくことが極めて重要で、それが今後のグローバル化であろうと思っています。田中郁三先生の生き方を参考にして、何分の一か何百分の一かですけれども努力することが、次の世代にそれを託すことが先生へのご恩返しになる、そう田中郁三先生の前夜祭で思った次第であります。心より田中郁三先生のご冥福をお祈り申し上げます。

2015年6月7日
増原 宏
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