増原メッセージ:(29)光化学協会40周年にあたって
1.はじめに
私が光化学という専門分野があることを知ったのは、小泉正夫先生の書かれた「光化学概論」(朝倉書店)を手にした時だと思う。東北大学理学部化学の学部時代で、同じころに小泉先生が訳された、ポーリング著「量子力学序論」も購入し、訳もわからずにしかしおもしろそうだと感じたこともあり、卒業研究は小泉研究室を選んだ。直接の指導は奥田典夫助教授(後に環境庁環境科学研究所部長)にいただいた。修論をまとめるころまで小泉先生と直接研究の議論はなかったが、先生の研究生活は、研究とは、研究者とはかくなるものかという強い思いを奥手の私に与えた。あの日々を昨日のことのように思いだす。
その後、私は博士課程で阪大基礎工学部に移り、又賀f研究室で学位を取ることにした。1968年のことである。又賀f先生はその年に設置されたナノ秒ルビーレーザーを前に、「今後光源はすべてレーザーに置き換わる、レーザーを使った光化学の研究には無限の可能性がある」と諭され、若い私は大いに感激した。私はレーザーを使った研究で学位を取る又賀研で初代の院生となり、ナノ秒ルビーレーザーを安定して発振させること自体が最初の仕事であった。ナノ秒レーザーならではの論文が書ければそれで十分価値があるという認識もあって、全く自由にテーマを考えることができた。この時いわゆる探索研究の醍醐味を味わったのだと思う。以来レーザー誘起による新しい分子現象の探索と解明の研究を心がけ、化学科、合成化学科、高分子学科、応用物理学科、生命機能研究科、物質創成科学研究科、応用化学系に籍を置いて、いわゆる境界領域で働いてきた。しかし研究内容は一貫してレーザーをベースにした分子レベルの研究で、研究活動は主に光化学協会、光化学討論会で行ってきた。物理(ものの理の研究)と化学(ものの豊かささの研究)のどちらにも偏らず展開できるのが、日本の光化学の強みだと思っている。
2016年で72歳になったが、台湾の新竹にある国立交通大学でレーザーと顕微鏡を駆使した探索研究を続けている。若いころに予想した以上の、持てる能力以上の研究生活を送ることができたと思っているが、これは光化学協会のおかげである。研究のチャンスを、研究者としてのトレーニングを、また生きがいを与えてくれた場としての光化学協会に深く感謝している。この光化学協会40周年にあたり、日頃から思っていることを書き留めておきたい。
2.研究を育てる場としての光化学協会
光化学協会は決して大きい学協会ではく、財政が豊かなわけではないが、その研究レベルと研究者の質は極めて高いと自負してよいだろう。会員数約1000人の光化学協会であるが、過去数十年多くの「光」関連のプロジェクトの代表者を輩出してきた。私がメンバーとして入れていただいた、あるいは関係してきた科研費プロジェクト(特定研究、重点領域研究、特定領域研究、新学術領域研究)を以下に列記する。(敬称略。誤解、見落としも多いかと思う。)
@「高効率光化学プロセスの研究」
特定領域研究 松浦輝男 (昭和61年〜63年度)
A「光反応ダイナミックス-環境場制御による新展開-」
重点領域研究 小尾欣一 (平成6年〜8年度)
B「光操作による単一有機微粒子の光機能と反応の制御」
特定領域研究(B)増原宏(平成10〜14年度)
C「光機能界面の学理と技術−光エネルギーを有効利用するサステイナブルケミストリー」
特定領域研究(A) 藤嶋昭 (平成13〜18年度)
D「強レーザー光子場における分子制御」
特定領域研究(A) 山内薫 (平成14〜17年度)
E「分子系の極微構造反応の計測とダイナミクス」
特定領域研究(A) 増原宏(平成16〜18年度)
F「光-分子強結合反応場の創成」
特定領域研究 三澤弘明 (平成19〜22年度)
G「フォトクロミズムの研究とメカニカル機能の創出」
特定領域研究 入江正浩 (平成19〜22年度)
H「人工光合成による太陽光エネルギーの物質変換:実用化に向けての異分野融合」
新学術領域研究 井上晴夫 (平成24〜28年度)
I「高次複合光応答分子システムの開拓と学理の構築」
新学術領域研究 宮坂博 (平成26〜30年度)
幸いにして当時の光化学協会誌「光化学」には参加した研究者の研究内容についての報告が載せられている。
次に若い研究者の関心事であるさきがけ研究についてもメモしておきたい。1991年から始まった科学技術振興機構(前身は新技術開発事業団)のプロジェクトで、個人研究、研究期間は3(ないし5)年、研究費約数千万円で新しい研究の流れをつくることを目的としている。研究員は30から40人で、幸いにして「光」に関する研究領域は平均して数年に一度選ばれてきている。近年はエネルギー問題、あるいは光科学技術の重要性から加速度的に増えて来ている。「光」が研究領域名に入っているプロジェクトと研究総括者のお名前を以下に書く。
@「光と物質」本多健一 (1991〜)
A「光と制御」花村榮一 (2001〜)
B「光の創成・操作と展開」伊藤弘昌 (2005〜)
C「物質と光作用」筒井哲夫 (2006〜)
D「光の利用と物質材料・生命機能」増原宏 (2008〜)
E「太陽光と光電変換機能」早瀬修二 (2009〜)
F「光エネルギーと物質変換」井上晴夫 (2009〜)
G「光の極限制御・積極利用と新分野開拓」植田憲一 (2015〜)
H「生命機能メカニズム解明のための光操作技術」七田芳則 (2016〜)
さいわいにも「光」関係の研究領域は並列して走る状況にあり大変活発である。研究領域名に「光」が入っていない場合も、「光」関連研究は多い。例としてナノ関係のさきがけである「ナノシステムと機能創発」長田義仁 (2008〜)を調べてみると、40人の研究者のうち、次のような「光」関係の研究課題が選ばれている。
「ナノ細線状半導体光触媒システムの開発」
「NanoからMicroへの精密自己組織化で拓く円偏光有機レーザーの創製」
「制御された単分子/環境半導体ナノ構造を素材とした発光素子創製」
「高分子ナノマテリアルの光アクティブ制御と機能探索」
「ナノギャップ金属構造を利用した赤外・テラヘルツ光検出システム」
「有機ナノクリスタルの発光プロセス変換による新規バイオイメージングシステムの開発」
「3次元メゾスコピック・エンジニアリングによる有機アクティブレーザー光源の創出」
「量子ナノ構造近接相互作用により創発する先端光機能」
このような各種プロジェクトを見てみても、光化学協会関係者が多数参画しており、光化学協会が研究を育てる場として、大きな役割を果たしたものといえるだろう。
3.研究者を育てる場としての光化学協会
光化学協会の研究者の質は極めて高く、また見識のある先生が多数いらっしゃると感じていた。日本化学会の歴代会長のリストを見ると、光化学協会会員として、長倉三郎(1984)、吉田善一(1987)、伊藤昌壽(1988)、本多健一(1990)、田中郁三(1991)、西島安則(1993)、岩村秀(2001)、藤嶋昭(2006-2007)の諸先生のお名前がある。光化学は80年代から2000年初頭にかけて、もっとも注目されていたと言えるのかも知れない。このような大先生やその研究室スタッフが出席される光化学討論会に参加することにより、その研究活動を色々参考にさせてもらえるということは有り難いことであった。
ここでは印象深くいつまでも記憶に残っていることについて、二三書かせていただく。長倉三郎先生が懇親会でされるご挨拶を何回か伺ったことがある。あるとき境界領域研究の重要性について話された。「昨今のノーベル賞は伝統的な課題からではなく、二つの専門領域の境界から出てくることが多い。共同研究は境界領域研究を進めるものとして、これからますます重要になるだろう」というような趣旨であった。しかしそれから数年後に長倉先生が、「最近の共同研究はお互い分担するだけのものが多い、本当にそれでいいのか、必要な技術、方法論、概念を自前でやり遂げてこそ本当のサイエンスと言えるのではないか」とおっしゃった。若い仲間の間では困惑した向きもあったが、研究はまさに生きていると納得をしたものである。日本研究の指導的な立場におられる先生が、時に応じてどういう風に時代の研究課題をみておられ、かつ展望を持とうとしておられたかが伝わってきた。このように光化学協会の大先輩からは、研究室や学科では聞けない話を伺った。物理化学とは、方法論と物質科学の関係、レーザーについて、エネルギー変換について、光生物について、バイオサイエンスとの関係について、などなど、新しい情報をいただいたという以上に、研究者としてどう受け止め、考え、新たに志向していくべきかを諭されていたと思っている。
60年代後半から70年代にかけて、私の属していた又賀研究室ではテトラシアノベンゼンを電子受容体、ベンゼンメチル置換体を電子供与体とする弱い電荷移動錯体の蛍光状態の研究をしていたが、東大長倉研究室でもレーザー、ESRを駆使して蛍光状態、燐光状態を調べており、しばしばオーバーラップして緊張感ある発表質疑応答になった。あるとき長倉先生が又賀研院生の発表に鋭い質問をされ、それに院生は答えられず右往左往した。凡人にはテリトリ―争いにも見えかねない瞬間だったが、又賀先生は「この一連の研究は、錯体の電子状態は溶媒に依存して決まるという概念確立に向けてのもの」であるという説明をされた。長倉先生はその趣旨を即座に理解され、二三コメントをされて終わって。このようなフェアーでしかし鋭いやりとりが若手を鍛えると身を引き締めたものである。数十年たった今でも、このような研究の本質に触れるやり取りが光化学討論会のあるべき姿と思っている。(正確には光化学討論会ではなく、分子科学総合討論会、あるいは数年で取りやめになった電荷移動錯体討論会での経験かもしれない。)
サイエンスのみならず、光化学協会の活動を通しても、私は教育されたと思う。プロジェクト運営、国際会議の主催、アジア光化学協会の設立と運営などにおいては、多くの内外の大先生、先輩、友人に色々学ばせてもらった。光化学協会のメンバーであればこそのご指導をいただいたと思っている。
4.光化学協会はアジアへ
研究も、人生も、組織も次の一手を考えて生きていかなくてはいけない。光化学協会の将来の一つはアジアにおける研究活動をどう自分のものとして行くかにあると思う。私はレーザーをベースにした光化学研究に従事してきたので、国際会議参加や共同研究は欧米に限られていた。90年代半ばまで、アジアと研究を結び付けて考えたことがなかった。1996年に香港で開かれた第一回アジア光化学会議に出席し、そのプロシーディングズを編集したころからアジアの研究活動に興味を持つようになった。その後インドのバンガロール、韓国の大田に出掛けるチャンスがあった。諸先輩の長年の努力が実って、2000年にアジア光化学協会のキックオフミーティング、2002年ムンバイでの発足と展開する。これについては過去の本誌に詳しくレポートされている。ここでは今後の光化学協会とアジアとの関連を考える一助として、台湾で感じていること、考えていることを書きとめる。
2004年に台北市の北部にある医科系大学の国立陽明大学に集中講義に招かれた。廊下に窓のない南国的な建物で研究生活をしている台湾人教授にある種の共感を持った。2005年に李遠哲先生(ノーベル化学賞受賞者)や林聖賢先生がアジア光化学会議を台北で開催された折、私に台湾との共同研究あるいは連携を示唆された。李遠哲先生やその弟さんで同じく物理化学者の李遠鵬先生に、時折私の研究室やプロジェクトの成果報告書、著書などをお送りしていたのを見てくださっていたようだ。しかしどういう形の展開が可能なのか私にはイメージがなかった。一般論と受け止め、何よりも忙しく考えようとはしなかった。2007年に李遠鵬先生から私に研究室を作って招聘したいと考えているとのメールをいただいた。私は新竹市にある国立交通大学に李遠鵬先生を訪ね、アメリカ帰りの林明章、林聖賢の超一流物理化学者、太陽エネルギー変換やバイオナノ研究に従事する若手教授陣とも懇談した。日本の一流大学と同レベルの素晴らしい化学教室だと実感し、即お受けすることにした。以来8年以上台湾で研究生活を続けている。2004年60歳だった私は、次の10年にアジアで暮らすことになると思いもせず、アジアの大学がどう国際化していくか全く予測すらしていなかった。今後、大学、学協会、討論会のグローバル化はさらに加速することはあっても、止まることはないであろう。若い光化学協会員にはこれからの10年、2020年、2030年に向けてアジアで何が起こるか考え対応してほしい。
適材適所という言葉を思い出す。人はそれぞれ発想、経験、能力、年齢が異なる。研究者も技術者も、発想、経験、能力、年齢が異なる。その多様性に応じたポスト、ファンディングが、人を、研究者を生かすことになり、ひいては大学、会社、国を富ますことになる。昔は、適材適所は国内に限られていたが、グローバル化時代においては、国際的な適材適所の時代になってきている。自分の能力をどこで生かすか、どこで一番必要とされるか、そしてどこで生きていくかをグローバルに考えていただければと思う。
私は着任した直後は国立交通大学を湧き上がるアジアの大学と思った。2015年のアジア大学ランキングで国立交通大学は36位だそうである。これより上にある日本の大学は7校である。台湾、韓国、中国の科学技術は伸びているが、このランキングから言えば、もう追いついたとも言える。台湾、韓国、中国の若い人ほどもうすぐ日本と同じくらいになると感じるらしいが、どの国でも一流の研究者ほど日本に追いつくには、もう二、三十年はかかるかなとおっしゃる。8年間台湾に滞在して、今ではいろいろな側面が見えてきた。科学技術の成果は比較的容易にフォローできるけれど、言うまでもなく科学技術の源流を作り出すのは簡単ではない。台湾で研究していて、ますます科学技術は文化の所産と思うようになった。社会、文化、習慣、民度とオリジナルな発想は強く関連している。したがってグローバルが進み、バイリンガルになっても、日本の特徴が簡単に消えたりはしない。若い日本人研究者がアジア諸国に乗り出せば、文化の違い、習慣の差を強く感じるがゆえに、従来にない新しい発想を持つチャンスが増えると考えている。光化学協会員の未来がアジアにあることは確かである。
5.おわりに
光科学技術は、電気・電子、機械、化学、環境、エネルギーなどの各種科学技術と較べて議論されることが多いが、私はもっと上位にあると考えている。光は、エネルギー、時間、空間を同時に制御して、非接触、非破壊的に、材料や生物の計測、加工、機能発現を図ることを可能にする。光科学技術の研究は、材料の性質や生命機能の測定、材料・デバイス・チップなどの作製にきわめて有効であるが、それにとどまらず新しい物質システム、生命機能を生み出すメカニズムに関する概念や次世代の科学技術の発想を与える。その高いポテンシャルは他の科学技術に比べ際立っていると考えている。この光科学技術の特徴を分子レベルで具現化するのが光化学であり、その研究と研究者を育てる役割を光化学協会が果たしてきた。今後もいっそう発展することを心より願っている。
(本稿は光化学協会誌「光化学」47巻2号(2016年)に掲載されたものと同趣旨で、若干の手を加えている)